君と見た空を忘れない

三題噺 お題 「自由」 「奇跡」 「死」 より

「お母さん、お母さん、早く早くー!」
今年で7歳になる娘が手を振りながら私を急かす。
「そんなにはしゃいでると転んじゃうわよ。もうちょっとゆっくり歩きなさい。」
そんな心配をしていると、娘はその期待に応えるかのように何かに躓いてバタッと倒れた。
あらあらと急いで娘に駆け寄り、その身を起こしてあげる。
「痛いよー。」
今年から小学生になったというのに、まだまだ甘えん坊の娘。
私は傷口をウェットティッシュで拭いてあげる。
「痛いの痛いの飛んでけー。」
私がそう言ってあげると娘はキャッキャッと嬉しそうな顔をした。
本当に痛みを飛ばしてくれるみたいに優しい風が私と娘の間を吹き抜ける。
麦わら帽子を飛ばされないように、私は娘の頭を少しだけ強く押さえた。
少し歩くと娘が大きな声で叫んだ。
「わあ!すごい綺麗だよお母さん!」
娘の視線の先には、空の青い色とはまた違った色の海が広がっていた。
久しぶりに見る海に興奮気味のようだった。
「じゃあ、お父さんのところへ行った後に来ようね。」
「本当?やったー!」
私たちは雅人の待つその場所へ向けて歩き出した。

雅人が病に倒れたのは3年前の話だ。
会社へ行く前、普段なら5分もあれば食べてしまう朝食を残しだるそうにしていたのだ。
「あら、好きな焼き魚まで残して具合でも悪いの?」
「んー、今日はちょっと食欲がなくってさ。ゴホッ、ゴホッ」
軽く咳き込む雅人の顔が少しばかりか苦しそうに見えた。
「ちょっと、本当に大丈夫?調子悪いんじゃない?」
「風邪かな?最近会社でも流行ってるし。まあ、すぐ良くなるよ」
「あまり無理しないでね。」
雅人の言葉にちょっとだけ安心して私は見送ったが、それがこれから起こることの前触れだったなんて当時の私には知る由もなかった。

何ヶ月経っても咳が止まる様子はなく、最近は顔色も悪く元気がない。
家族でどこかに出かけるにしても、一番最初に疲れて休んでしまうのは雅人だった。
そして、私はある時見つけてしまった。
洗面所に咳止めの薬が置いてある。
娘の久実が飲むことはまず考えられない。そもそもあの子が持ち出せる場所に薬箱は置いてないし、買った覚えもない薬だ。
雅人だ。
瓶の中身がかなり減っている。かなり前から飲んでいたのだろう。
こんなものを飲むくらいなら、早く医者に行けばよいのに。
「ねえ雅人、これが洗面所にあったけど具合が悪いんだったらお医者さんに見てもらってよね。」
私が差し出した瓶を見て、雅人の顔色が変わった。
「ああ、ごめんごめん。大丈夫だから。ちょっと頭が痛くなっちゃってさ…。心配しないで大丈夫だよ。」
左のまぶたがピクピクと動く癖。それは嘘をつく時に現れるしぐさだった。
今思えば、あの時それに気付いていたのに無理やりにでも追求しなかったのはなぜだろう…。
あの時病院に連れて行けば、雅人は少しでも助かる可能性があったかもしれないのに…。
そんなやりとりをした2週間後、一本の電話から事態は急変することになる。
「もしもし、株式会社八橋商業の井上と申しますが、奥さんいらっしゃいますか?」
以前雅人が家に連れてきた部長さんの声だった。
「あ、私がそうですけど、いつも主人がお世話になっております。」
「奥さんでしたか、今突然なことだったんで私も何がなんだかわからないのですが…。」
それは主人が倒れたという電話だった。
あまりに突然のその電話に、事態がよく飲み込めない。。
震える手で受話器を落とさぬように握りしめ、状況を必死に理解しようとする。
「……で……場所………してすぐに………へ。」
だめだ、部長さんが言っている言葉も何を言っているのかわからない。
何度も言っている内容を聞き直しながら、やっとの思いで病院の場所を聞くと
電話を切って、私は雅人の元へ急いだ。
どうやってその病院に行ったのかは今はもう覚えていない。
何が起こったのか、雅人は大丈夫なのか。そのことだけで頭の中がいっぱいだった。
病室のドアを開けると、ベットに横たわっている雅人。
顔色は少し悪いけど、思ったより元気そうな姿をしている雅人を見て少しだけ安心した。
「いや、ごめんな。心配させちゃって。」
申し訳なさそうに話す主人の姿を見て、私は思わず目頭が熱くなった。
「バカ、そんなこといいわよ…無事だったんだから。」
「ありがとう、千恵。ごめんな…。」
主人と話していると、診察をしてくれた先生から話があるということで私は病室を後にした。
「ご主人のことですが、ちょっと疲れが溜まっているだけですよ、休めばすぐよくなりますよ。」
その言葉が聞けるものだと思い込んでいた私に告げられたのは、それこそ天国から地獄へ一気に叩き落されるような一言だった。
「竹野さん、ご主人の病気のことなんですが…」
先生がその先にどんな言葉で、どういう風に私にその病名を告げ、説明してくれたか。それは今でも思い出せない。
会話の途中途中で聞こえる癌・・・そのよく知っている言葉に私は世界が真っ白になっていく。
そのの言葉は、今までの幸せな生活が壊れていく音のようにも聞こえ、私の胸を貫いてかき回した。。
意識の飛んでいる私を現実に引き戻したのはまた先生の声だった。
「ご主人の癌はまだ末期ではなく初期のものなので、手術をすれば治りますよ。頑張りましょう。」
治るかもしれない・・。その言葉が私の希望となった。
雅人に癌ということを告げるか告げないか迷ったが、私の両親、雅人の両親と話し合った結果、告げることにした。
「そうか・・・癌か。」
その場で暴れだすかもしれないと思っていただけに、元気なくつぶやいた雅人が小さく見えた。
ひょっとしたら、自分ですでに何かを感じていたのかもしれない。
病名を知って、ショックを隠せないようだったが、それでも明るく振舞う雅人。
でも、それは私たちがいるから見せる表情だったのだろう。

だけど、ある時病室から聞こえた雅人の声を私は今でも忘れることができない。
「くそ!どうして僕が!!どうしてなんだよ!どうしてだよ…どうしてなんだよ…助けてくれよ!誰でもいいから助けてよ
!!
いやだよ、死ぬのはいやだよ!うおおおおっ!!
…たとえ、仕事が辛い時にも、他の病気の時にも弱音は吐かなかった。
しかし今、嗚咽しながら泣き続ける主人がドアの向こうにいる。
私は部屋に入ることができなかった。
雅人は今どんな顔をしているのだろう、どんな思いで言葉を吐いているのだろう。
私は主人に何をしてあげることができるのだろう。中に入ってもひょっとしたら何もできないかもしれない。
そんな自分が情けなくて、雅人の顔を見るのが怖くて、悔しくて壁に寄りかかりながら私は声を押し殺して泣いていた。

手術はその数日後行われた。肺癌…死亡率が一番高いと言われている癌が、皮肉にも私たちの敵だった。
あまりに早く終わってしまった手術に少々戸惑いもしたが、手術は成功した。
成功ということを聞いた時の雅人の嬉しそうな顔。
また・・・あの幸せな生活がきっと戻ってくる。本当に嬉しかった。
娘の久実には雅人が重い病気ということは告げてない。
まだ幼稚園の久実には言ってもわからないかもしれないということもあったが、
なにより不安にさせたくないというのが正直な気持ちだった。
しかし、小さな久実にとっては相手にしてもらえないぐらいに思ってたのかもしれない。
病院のベッドに寝ている雅人を、その小さな手でポカポカと叩いては私たちを困らせていた。
「お父さん、早くよくなって久実と遊んでよー、遊園地に行くのー。」
「よーし、よくなったらパパとママと久実と三人で行こうな。」
「その時は久実とパパとが好きな卵焼きも作ってこうね。」
すぐそばにあるであろう幸せ、そんな日がすぐくる。そう思っていた。
だけど、雅人が退院することができたのはそれからしばらくしてからだった。

雅人も一度入院したことで、私たちと過ごす時間がいかに大切なものかということに気付いたのか、
それからは入院前異常に色々なところへ連れて行ってくれるようになった。
遊園地、公園、山、海、牧場…その他にも色々な場所へ行って、思い出を作って私たちは幸せだった。
しかし、その小さな幸せも長くは続かない。
癌の再発、転移……。今から2年前のことだった。
癌という病気は一度は直る。だが、再発するとほとんどの人が死んでしまう。
1年ほどで再発することが多いそうだが、雅人もまたそのケースが当てはまってしまった。
今度ばかりはダメかもしれない。そう思って泣いている私に雅人が話しかける。
「僕は最後の最後まで諦めない。どんなに惨めにだってもいい。人間だもの・・・。生きたいよ。
だから、戦いたいんだ…この病気と。千恵、僕に力を貸してほしい。」
その言葉を主人はどんな気持ちで言ったのだろう。
まるで何かを悟ってしまったかのような言葉。
でも、私も生きてもらいたい。生きてほしい。私たちは癌と徹底的に戦うことを決めた。
その甲斐あってか、病状はよい状態を維持し続けた。
この状態がずっと続いてほしい。それだけをただ願い続けていた。

だが、現実は残酷なものだった。
ある日を境に咳がが止まらなくなり、雅人は胸の痛みを訴えるようになった。
喉が詰まると言い、ティッシュに吐き出した痰が真っ赤ということもあった。
このままではいけない。
雅人の希望もあり、再び入院生活が始まった。
病室で癌から来る痛みに苦しむ姿。それが毎日のように続いていく。
私はそれが悲しくて悲しくて…そんな苦しんでる雅人にそばにいてあげることしかできない自分がいて…悔しかった。
進んでいく病状、過ぎていく時間…ひょっとしたらこのまま雅人が死んでしまうんじゃないんだろうかと思ってしまう。
私はきっと疲れていたに違いなかった。
そんな色々な不安な気持ちから、私は1人泣いていた。そんな私に気付いたのか、久実が心配そうに声をかけてきた。
「ねえ、お母さん、お父さん大丈夫なの?」
「……大丈夫?…そんなの、大丈夫なわけないじゃない!!」
言ってしまった後に自分がどんなに最低なことを口にしてしまったかに気付いた。
胸の奥に溜め込んでいた主人が死んでしまうかもしれないという恐怖と悲しみを久実の前で言ってしまった。
久実がボロボロと大粒の涙を流す。私は思わず抱きしめていた。
「ごめんね、ごめんね。」
私も今まで泣かないようにしていた涙が、今その分だけ一気に溢れてきた。
「お母さん、久実いい子にするから。ちゃんとお母さんのお手伝いもするから、ほしいものも我慢するから、
だからお父さんに会いたいよ。お父さんに会いたいよ。」
「久実!」
その言葉を聞いて久実を抱きしめる腕に力を込めた。。
こんなに小さな子までこんな思いをさせてしまっているのが本当に辛かった。
なんとかしたいと思い、必死に医療関係の書物を読んでみるが、蓄積され行く知識とは逆に雅人の病状は悪化していった。

そして、ある時主治医の先生に私は呼ばれた。
「ご主人をホスピスに移してあげませんか?」
「ホス…ピスですか。」
ホスピス。自分で本を読んでいた時にも出てきた用語だ。
それは末期癌の患者が残りの余生をゆっくり暮らすことのできる施設。
そしてそれは、雅人の余命が6ヶ月はないという宣告でもあった。
ホスピスケアを受けるには医師による余命6ヶ月以下の診断が必要…戦うことを諦め、あとは訪れる死を主人に待てというのだろうか。
私は納得できなかった。
「まだ主人は助かります…助かります!」
よほど大きな声だったのだろうか、先生がぎょっとした目で私を見た。
涙を滲ませながら話す私を先生はなだめるように話す。
「もうダメだからホスピスに行けと言う意味ではありません。ただ、ご主人のことを思えばその方がいいと思いまして。
このまま闘病生活を続けるよりは、残りの時間をご家族などとゆっくり過ごされたほうが…。」
だんだんと主治医の言葉も耳に入らなくなってくる。
ホスピスに入ったら本当に終わりなんだ。終わりなんだ。しかし今の雅人の姿を見るとそれしか道はないのかと思ってしまう。
雅人にホスピスの話をしたところ、しばらく何かを考えるように黙り込んでしまった。
随分とやつれてしまった雅人を見てあふれ出そうになる涙を必死に堪えながら、私は返答を待った。
「千恵、僕はホスピスに入るよ。」
他の事は話さずに、ただその一言だけ雅人は答えた。

ホスピスへ移動して、そこでの新しい生活が始まった。
癌から来る痛みを和らげる…というよりは神経を麻痺させて痛みを感じなくさせるためのモルヒネを注射されたことにより、
雅人は大分楽になったようだった。
一般の病院にいた頃に苦しんでいた姿からは想像もできないぐらいに生き生きしている。
その顔を見ると、ほんの…ほんの少しだけ嬉しくなった。
雅人の入ったホスピスは海の近くにある。周りには緑も多くあって本当に住みやすそうな場所だった。
他の患者さんもきっと雅人と同じように闘病生活をしてきたのだろう。
だけど、ここにいる人たちはみんな穏やかな顔をしていた。
ホスピスが入ってからも、雅人と親しかった人たちが何度かお見舞いに来てくれた。
嬉しそうに話す雅人とその友達を見て、改めて雅人の人柄を知ったような気がした。
時々、車椅子に乗る雅人を私が押しながら外を散歩する。
病院を出ると、南の方に廃線となってしまった線路が見える。
雅人がその線路を歩いてみようというので、私は言われるままにその線路のほうへ車椅子を押す。
その線路は丘の上で途切れ、そこから海が一望できる場所を見つけたりと闘病生活の頃と私たちの生活は違っていた。

そんなホスピスでの生活を過ごし、幾つかの月を経て…その日はやってきた。
いつものように私は雅人の乗る車椅子を押す。随分と軽くなってしまった重さを確認しながら私たちは外へ出た。
「あなた、行きますよー?」
しかし返事は返ってこない。
モルヒネだけでは痛みを抑えられないようになり、新たに投与された薬の影響だ。
雅人はもうほとんど喋らない。1日の大半をまどろみの中で過ごしていた。
穏やかな顔で寝ている雅人の顔を覗き込み、その笑顔を確認すると私はゆっくりと車椅子を押して進みだした。
季節は夏。照りつけるような暑さではあるけど、輝く海と優しい風がそれを暖かい気候にしてくれる。
カタ…カタ…カタ…。
線路の上をゆっくりと歩く。ときどき残っている枕木に車椅子が揺れながら、先の見えない線路を歩く。
ふと、目をやると相変わらず気持ち良さそうに寝ていた。
目に入ったすっかり細くなってしまった雅人の腕を見ながら、私は少しだけ…ほんの少しだけ涙を流した。
カタ…カタ…カタ…。
寝ている雅人を起こさないようにゆっくりと車椅子を押す。
線路から見えるひまわり畑と海、吸い込まれてしまいそうな青い空を眺めながらゆっくりゆっくりと。
どれくらい歩いただろうか。少しだけ疲れて私は立ち止まった。
初夏の風が線路を走って、私たちを追い抜いていくように吹き抜けた。
「う……う……。」
その風に起こされたのだろうか珍しく雅人が起きたようだった。
「あなた、おはよう。」
「ああ、おはよう。」
私は雅人の言葉を聞いて、涙が止まらなかった。
薬による副作用で言語障害が出るかもしれないと言われ、今まであまり言葉を喋らなかった主人。
状態が悪い時はうめき声に近い声しか聞くことができなかった。
そんな雅人とこうして普通の会話ができる。
それは病気が治る奇跡とは違って、ほんの小さなことかもしれないけど本当にそんな小さなことが嬉しかった。
「どうしたんだい?千恵、何で泣いてるんだい?」
雅人が話しかけてくれることで、本当に雅人と話しているのだと確信する。
「何でもないわよ、ちょっと涙が出ちゃっただけ。」
「あはは、それが泣いてるんだよ。」
雅人が嬉しそうに笑った。
「なあ、千恵。確かもう少し行くと海が見える場所に行けるよね。ちょっと押してくれないかな。」
「わかったわ。」
私は再び車椅子を押す。
「線路は続く〜、あの広い空へ〜。」
雅人が歌を歌っている。学生時代からよく口ずさんでいた歌だ。
その声に合わせて私も歌う。
「線路は続いてる〜、あなたの元へ〜。」
しばし2人で小さな合唱をしながら歩いて、そして海が一望できる場所へたどり着いた。
丘の高い位置にあるこの場所は、空が近く、海が近い。
雅人はこの場所がお気に入りのようだった。
しばらく2人で空や海を見ながら静かな時を過ごす。
「千恵、本当にありがとう。」
ふいに雅人が私の名前を呼ぶ。
「どうしたの?急に。」
ちょっと嬉しくて、切なくなって私は返事をする。
「いや、なんとなくだよ。お礼を言っておきたくてね。君がいてくれたから僕はここまで生きて来れたんだ。
君がいなかったら、僕は…もっと早くダメになっていたかもしれない。」
「そんなこと言わないでよ…。私はあなたが好きだからここにいるんだから。
あなたがプロポーズしてくれた時から、あなたと一緒に生きるって決めたんだから。」
ダメだ。堪えていた涙が止まらない。
「ありがとう。僕は幸せものだな。」
泣きじゃくる私をそっと細い腕で撫でてくれる。
「なあ、千恵。上を見てごらん。」
雅人に指さされた空を見ると、真っ青に広がる空。
雲がゆっくりと流れていた。
「広いよな空って。どこまでも続いていて、地球の裏側にいる人たちだって同じ空を見てるかもしれないんだよ。」
「…そうね、綺麗で…広くて…素敵よね。」
主人の言葉に私は頷く。そういえばここ最近空を見るなんてしたことなかった。
「千恵と一緒に、この空が見れて良かったな。」
「やめてよ…そんな言い方しないでよ。」
そんな主人の言葉が聞きたいのではない。私は聞きたくなかった。
「千恵、人や線路にはいつか終わりがあるけど、この空には終わりがない。どこまでも行っても、ずーっと空が続いている。
そして、その空の下に人は生きている。晴れだったり、雨だったり、雪だったり、様々な表情を見せる空の下でね。
そんな表情豊かに天気が変わる空も、まるで人間みたいだよね…。だから…だから僕はもし生まれ変われるとしたら空になりたい。
だって、そしたら終わることなく君たちの事を見ていることができるから。
君が嬉しい時には優しい風を吹かして、君が泣きたい時には雨を降らせて、君が落ち込んでる時には暖かい光を届けよう。
僕はそう思うんだ。」
「あなた…。」
「一瞬一瞬でその表情を変えてしまう空。雲だって同じ場所に留まることなく、自分の居場所を求めて旅をしている。
目を離してしまえば、もう同じ空を見ることはできないかもしれない。
でも、今僕たちは同じ…この空を見ている。そして一緒にそんな瞬間を生きている。
それは僕が君と共に生きているという確かな証なんだ。
だから、僕は君と見た空を忘れない。絶対に…忘れないから。」
嬉しかった。ただ本当に嬉しかった。また流れ出しそうな涙を堪え、私は精一杯の笑顔で雅人に微笑んだ。
「私も、あなたと見たこの空…この瞬間を忘れないわ。」
雅人も嬉しそうに微笑んでくれる。私たちはこの瞬間を忘れないようにと、力いっぱい抱きしめあった。
もうすぐ帰らなければ夕暮れまでに病院にたどり着けない、名残惜しいけど再び車椅子を病院に向けて押し始めた。
カタ…カタ…カタ…。
少しすると、雅人が眠そうに口を開いた。
「千恵、ちょっと疲れちゃったから寝るね。」
「うん、ゆっくり休んでね。」
雅人が目を閉じる。それを確認して私は再び車椅子を押す。
カタ…カタ…カタ…。
「あー、明日は久実も幼稚園休みだろう?そしたら3人でまたあの場所に行こうね。」
寝付けないのだろうか?雅人が再び口を開く。
「うん、連れてくる。あなたの好きな卵焼きも作ってくるからね。」
「楽しみだな…。」
雅人は嬉しそうに話す。
カタ…カタ…カタ…。
「あなた、起きてる?」
「うーん…。」
寝ぼけた返事が返ってくる。またいつもの深い眠りに入る手前なのだろう。邪魔しても悪いし、私はそれ以上声をかけるのをやめた。
カタ…カタ…カタ…。
「あなた、もうすぐ病院に着くわよ。」
返事はない。雅人のひざ掛けがずれているのが目に入って、私は一旦止まってそれを直そうとした。
「風邪引いたら困るからね。」
雅人の寝顔は嬉しそうだ。
そう、本当に嬉しそうで……でも……でも、それは寝顔じゃなかった。
「あなた…?」
ゆっくりと顔を撫でるように触るが、温かさを感じない。
何度も何度も…何度も何度も確かめるがやはり雅人は何も答えてくれない。
あれ?目の前が滲んできた。何でだろう、何で涙が出てきてるんだろう。
雅人がこうして目の前にいるのに、目の前にいてくれてるのに。
「あなた…あなた、ほら起きないと…起きないとだめなのに…やだ、起きてよ。ねえ…起きてよ…お願いだから…起きて…。」
頬を伝わる温かい感触。涙が止まらない。
やっと癌から解放され、自由になれた雅人の表情はとても穏やかだった。
その笑顔が悲しくて、私はその場所から動くことができなかった。

「お母さんー、もうすぐだよー!」
「そうだね、もうちょっとだ。久実頑張れー!」
線路を歩き、私と久実はあの場所へ向かう。
ひまわりが夏の太陽の方へ顔を向け、背伸びの競走をしている。
「ほら。久実、着いたよ。」
あの人とあの日、話した場所。その場所にやってきた。
「あ、お母さん、お父さんにお花上げないと。」
久実はリュックサックから花を取り出した。
「よーし、久実、お父さんにお花あげてね。」
「うん!」
久実が空へ向かって花を投げる。小さな小さなその手でその思いが空へと届くように。
その時、季節はずれの突然の風が、花を空へさらう。花は風に乗って空へ吸い込まれ、見えなくなってしまった。
「お母さん、お父さんに届いたかな?」
「うん、きっと届いてるよ。」
久実を後ろから抱きしめ、ゆっくりと2人で空を見上げた。
あなた、私たちは元気ですよ。
だから、心配しないでそこで見ていね。
青く輝く空が、そこには広がっていた。
どこまでも、どこまでも、どこまでも…。





あとがき
これを書いたのは、2003年でもう随分前のことになります。
病気の描写があまりないのは、表現不足と話がもっと重くなるのを避けて綺麗に終わらせたかったからだと推測します。
書くきっかけとしては、癌という病気を他人だけのものじゃなく自分やその身内にも降りかかるものだと感じたからだったかと…。
そんなうちの家系は、病気や事故で亡くなる方が多かったりします。
死因が癌というのは、実に日本人の3人に1人とも言われています。
癌や病気の恐ろしさは、看病した人、経験した人、している人なら十分わかると思います。
今、健康でいて普通に生活できること、何かをやっていけるこの時間が本当に貴重で大切ということを
ちょっとだけでも気付いていただけたら幸せです。

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